前回の続きです。
このエントリーは「東日本大震災」よりひと月後に編集しております。
■帰宅
会社の前で解散し、折しも金曜日だったことからとりあえず月曜日に出社することを確認し、全員がその場をあとにしました。
今考えてみると、その後の報道の状況などから週明けで通常業務ができるはずもないのは明白だったのですが、とにかくその場ではそのように感じたのです。
おそらく回りの状況がそれほど被害が少なかったことがそう判断させたのだと思います。
歩き出してすぐに甥のことが思い出されました。
甥は小学六年生で小学校は私の職場のすぐ裏手にあります。
わたしはそのまま家には直行せずに小学校によりました。
小学校の校庭に着くとすでに人でごった返していました。
児童や先生はもちろん、その保護者、また付近の避難してきたと思われる方々、また場所柄、近くのオフィスで働くビジネスマンなど様々です。
人をかき分け、最寄りの先生に聞き甥を見つけます。
近くの先生とおぼしき人に保護者であることを告げて甥を連れて行きます。
その帰りの道すがら普段より多くの人が往来を行き交ってましたが、それでも 回りに崩れている建物がなくまだその当時は、深刻な自体が発生しているという意識がありませんでした。
ただその帰路で甥に冗談がてらに「おじさんの人生で一番大きな地震だったよ」と言いましたが、その中身に偽りはありませんでした。
そんな台詞を自分で言っておいて少し家の様子が気になり始めましたが、大きなとおりにでると信号が止まっています。
いくら停電しているとはいえ日中から大きな幹線道路の信号が消灯している姿は異様な光景にうつりました。
不安が少し大きくなりましたが程なく家に着くと家は崩れた様子もなくホッと安心しました。
自分の部屋には入るとあらゆるモノが散乱していました。
ただ幸いに車やバイクにもダメージはありませんでした。
停電しているため情報がありません。
散乱した部屋からGOLLIRAを取り出しワンセグをつけ状況を確認します。
地震直後も同僚がケータイのワンセグからニュースをみてM8.2だかM8.4だかという数字を視ていました。
そのときなんとなく東日本の太平洋側に津波警報が発生しているのを覚えていましたが、あらためてGOLLIRAで番組をみて驚きました。
地震が宮城県にとどまらずかなりの広範囲で発生していたからです。
ここで自分の認識があらためられました。
「とんでもないことが起こっている」
とりあえず、片付けは後回しにしてそのワンセグを片手に両親の部屋に行きます。
家族は全員無事で母が甥を小学校に迎えに行って不在でした。
どうもすれ違いになってしまったようでした。
このときすでに夕方も近づき薄暗くなってきていました。
とりあえず片付けはそこそこに、父と発電機を取り出し電気を確保することにしました。
幸いにして父の車はハイブリッドカーのためそこからも電気をとることにしました。
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