まずはじめにこのたびの地震でお亡くなりになられた方々にお悔やみ申し上げます。
このエントリーは東日本大震災の一月後に書いております。
多くの方がご存じのとおり、2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするM9.0の大地震、通称「東日本大震災」が起こりました。
この地震により多くの方が命を失い、また多くの方が被災されました。
本ブログでは本来、私的な話題を主としているためこういった話題は趣旨に合わないのですが、多くの方がそうであるように、この大災害は私の今後の人生に少なからずの影響を与えた出来事、また自身の記憶を風化させないためにあえてエントリーすることとしました。
■ 地震発生
地震発生当時、私は会社のオフィスで仕事中でした。
私のつとめ先は仙台市の中心部で、つい数日前に比較的大きな地震が発生していたため、地震の起き始めは「またか」という程度の認識しかありませんでした。
しかし、地震はいっこうにやむ気配がなく目の前のPCの電源を落とすかどうか迷い始めました。
そうこうしているうちに地震はどんどん激しくなり、同僚は廊下に出て行きます。
私は机の下に身を隠し余裕がないながらもあたりの状況を見回しました。
回りの机はがたがたと揺れ、その上のPCは左右に激しく揺れてます。
激しく揺れるという表現ではなんとも伝わりにくいです。
たとえるならプロレスラーの大男が片手であいての脚でもつかんで左右に振り回しているかのような揺れ方です。
そのうちPCのディスプレイや電灯が激しく点滅しはじめました。
点滅といっても激しい規則的な点滅ではなく不定期にぱっと消えたりついたりです。
それも一瞬の出来事で、ついにはすべての電源が消えました。
普段われわれが体験する停電はいっきに電源がおちます。
しかし、それはまさに映画のワンシーンのようでした。
揺れはまだ続いてます。
机の下に身を隠しながらほんの一瞬、ほんのわずかですが 「このままビルが崩れた間違いなく死ぬな」という考えが頭をよぎりました。
それからほどなく地震がだんだんと収まってきました。
少し冷静さをとりもどし身の回りのものを机の下でまとめ始めました。
完全に地震がおさまって机のしたからでるとすでに同僚は皆避難した後でした。
上着を着て真っ暗な階段をおりるとビルの人間が外に集まっています。
あたりを見渡すと道路のそこかしこで動揺する人々がみてとれました。
近くのお寺では正門の近くになにかが崩れたようながれきがみてとれました。
たぶん、私以外の方も多くが想像したように「宮城県沖地震が来た」と思われたでしょう。
宮城県沖地震はほぼ30年周期で発生しており、数年前からそろそろ発生するのではと言われてきました。
しかし、ところどころタイルが崩れていたりするものの 前回の宮城県沖地震や阪神大震災のようなビル倒壊などは起こってません。
「意外とたいしたことはなかったのか?」と思いつつも大きな余震が再び発生します。
おおくの同僚は着の身着のまま避難したのでいくら日中とはいえ寒さが応えます。
私は社長とともにオフィスにもどり皆の上着を取りに行きます。
オフィスに戻ると中は惨憺たる状況でした。
PCというPCは倒れ足の踏み場もないような状況でした。
それほど多くもない従業員数でしたので全員の上着をかかえてすぐさま外にもどります。
その間、余震が幾度となく発生。
そのたびに街路の信号は大きくうねります。
その間仙台駅方面からは多くの人が徒歩でスタジアム方面に歩いて行きます。
避難でしょうか、それとも電車が止まってしまったのでしょうか。
もうその日は仕事できないと判断され その場はいったん解散し私も会社をあとにしました。
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